40分間の朗読 

先日、有志で説教の学び会を開いた。来週、日本の説教の第一人者ともいうべき先生が、神学校で講演&説教演習をする予定。そのための学び会である。

そこでその説教を聞く。ということをやってみた。音源はなく、手元にあるのは説教集。
はじめはみんなで輪読しようと思ったのだが、「説教として聞く」ことを大切にしてみよう、と思いたち、私がその説教をそのまま朗読実演してみたのである。

これが、思ったよりハード。全部で40分くらいの説教なのだが、途中何度もくじけそうになった。

しかし、聞いていたみんなからは、「やっぱり本を読むのと聞くのは違う!」という反応があり、また終わった後の風呂でも廊下でも話が広がった。

40分間の朗読が報われたようで正直うれしい・・。でも話しすぎて今、口がうまく動かないなあ。



休みの日の食事 

本日は神学校もお休み。
さて、そうなると困るのが食事である。私は料理が結構好きで独り暮らし時代、食事にはさほど困らなかったが、このように1日だけ食事が出ないという状況は食材も調味料もないので正直困る。

仕方がないので、朝、食パン。昼、食パン。
野菜が足りないぞと思い、以前もらったサプリメントを飲む。我ながらここで公開するのもはばかられるような寂しい食事である。

さすがにこのままでは1日が終われない、と思い、神学校の友人と「餃子の王将」へ駆け込む。
さきほど、ニラレバ餃子定食をがっつり食べてようやく落ち着いたとこです。

これから、ギリシア語とヘブル語。そして聖書概論のためにじっくり聖書を読んで今晩は夜がふけていきそうだ。

共に生きる 

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「わたしの罪が、他の者の罪と比べて、なお何かより軽いもの、より非難されるべき度合いの少ないもののように思われるなら、それはわたしが、そもそもわたしの罪というものをまだ真実には認識していないのである」(ボンヘッファー『共に生きる生活』より)

僕は毎週『共に生きる生活』を読む。学園の仲間とともに。神学校校長の自宅で開かれる祈祷会で読み進めているためだ。今週は上記の箇所が心に留まる。

神学校は寮生活。
「ともに生きる」というテーマがいつも目の前にあり、
「ともに生きる」ということに、ぶつかって生きており、
「ともに生きる」とは何ぞや?」この問いは、日常茶飯事。

冒頭の引用はそんな僕が、心にとどめておかねば、と受け取った言葉です。

授業再開 

本日より、新年の神学校の授業が始まった。

早速今週末はヘブル語の中間テストがある。最近、正直きつくなってきた。ヘブル語は動詞の中の1,2文字がなくなる。3つの文字で形成されていることが多いので、時に原型をとどめているのがたった1文字だったりする。

一つの文章を訳すのに30分かかることもよくあるのです・・んー。

ヘブル文字はこんな感じ。ちなみのこれはヨシュア記1:1付近である。上段1番左は「モーセ」という単語。
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めんつゆか?麦茶か? 

冬休みに入り、実家に帰ってきた。少し時間があったので、生まれ育った町を走る。僕の実家は群馬で「からっ風」で有名。走る向きによっては向かい風がしんどい。さて、家に戻り、風呂で汗を流し、冷蔵庫をあける。100円ショップで買ってきたような麦茶用の容器に入っている「麦茶」を発見。コップになみなみと注ぐ。のどはもうカラカラだ。

しかし、数週間前、友人と「人は本当に麦茶とめんつゆを間違うのか?」について議論したことが頭をよぎる。
いや、まさかね・・。でも我が家は冬に麦茶を作る習慣なかったなあ・・。

見た目は麦茶にしかみえない。しかし、怪しい・・。
僕は一口だけ飲んでみることにした。すると、口のなかには鰹だしと醤油の香りが!

こんな漫画か、ドリフみたいなことが現実になるとは・・

それしても、この容器は間違うだろ!と改めて容器を見る。すると視界に入らなかった側に、母の手書きで、思いっきり、

「めんつゆ」。

私の完敗である・・。